LOGIN美人で品のある女性の隣を歩いているのは、元婚約者の守里《もりさと》 流《ながれ》だった。
彼は私がここにいる事にも気付きもせず、横にいるキャリアウーマンと言った感じの美女に話しかけていた。 「もう別れた」「俺の本気」とは? クビになるから、私と結婚出来ない。だから別れて欲しいって、流は私にそう言ったよね? 頭の中が混乱する、流の言葉と今の彼の言動は全く一致してなくて。 「……へえ、あれが守里 流か。どこがいいんだ? あんな軽薄そうな男の」 「…………」 神楽《かぐら》 朝陽《あさひ》の嫌味な問いかけに応えるような余裕も今はない、ただ目の前の現実を理解するので精一杯で。 「しかし、隣にいるのは鵜野宮《うのみや》 梨乃佳《りのか》か。まさか、高嶺の花と呼ばれる彼女があんな男を相手するとはな」 「いやいや。あんなのは、梨乃佳様の遊び相手に過ぎないでしょうから」 神楽 朝陽の呟きに、取り巻きの一人がすかさずフォローを入れる。 それが鵜野宮 梨乃佳という女性に対してなのか、それとも神楽 朝陽に対してのフォローなのかがよく分からなかったが。 そもそも今の私には他人の事を気にしている余裕などない。だが、この状態を流に見られたくもない。なのに、神様はどこまでも残酷で…… 「あら、まあ? 何かあったのかしら」 「え? ああ、なんか人が集まって……ん? もしかして、あれは鈴凪《すずな》?」 「あの女性は、流君の知り合いなの?」 「鵜野宮さん」と呼ばれた女性が、彼に笑顔でそう訊ねる。その呼び方に、二人の親密さを感じてどうしようもなく胸がざわついた。 だけどそんな私に、蔑むような視線を向けた流は信じられない事を言った。 「いえ、昔の知人に似てた気がしただけで。あんなみっともない女と知り合いなわけがないでしょ? さあ行きましょう、鵜野宮さん」 「そう? 案外、流君の元恋人だったりするんじゃないの? ふふっ」 「まさか! 俺は鵜野宮さん一筋ですよ」 そう言って笑いながら私から離れていく、昨日までは婚約者だったはずの男。 決して振り向くこともなく、彼はその女性と共に建物の外へと出て行ってしまった。 嫌でも気付かさせられる、元カレからの一方的な婚約破棄の本当の理由。 すぐに解約されたスマホ。そして、渡したお金はきっともう返ってこないのだろう。 付き合った期間は決して短くなかったはずなのに、私は流にとってそれだけの存在だったのだ。 言葉を失いガックリと項垂れる。さっきまで負けるものかと抵抗していたのに、そんな気持ちも全部なくなってしまって。 「……おい、そろそろ彼女を離してやれ」 「え、ですが……」 「もういい、俺が直接その女と話をするから」 私の傍で神楽 朝陽が取り巻きの男たちと何かを話しているが、言葉が全て頭の中を通り過ぎていくみたいで。 その場で呆然としていた私を彼が強引にその場から連れ出すまで、何も出来ないでいた。いきなり腕を掴まれ彼の傍へと引き寄せられて、驚きで上手く言葉が出てこない。逃がさないって、朝陽《あさひ》さんはいったい何のことを言ってるの? パニックになりかけた頭で必死に考えるが、やっぱり訳が分からなくて。「あのっ! いったいどうしたんですか、朝陽さん!?」 もしかしたら私達の会話の中で、何か誤解されてしまったのかもしれない。だけどそれらしい内容もこの状況では、思い浮かびそうになく。いったい何が原因で、朝陽さんをこんなに感情的にさせてしまったの? もう一度落ち着いて話すべきだと思ったが、今の朝陽さんの勢いは止まらなかった。「お前を守らせて欲しいのは、俺もなんだと言っただろ?」「ちょっと待ってください、それは聞きましたけど。それとこれとは、話が……」 確かにそう言われた、でもそれは特別な意味なんて無いんですよね? 人形相手に、何故そこまで張り合ってるのか分からないけれど。だからといって、私と結婚式をしない話とは関係ないと思ったのに。「いいや、違わねえよ。契約という繋がりだけで、こんなに相手を大切にしたいとは思ったりしない。それくらい、説明しなくても分かるだろう?」 ねえ、それってどういうことですか? 朝陽さんが普段は口にしないような言葉に、私も驚きを隠せない。少なくとも今まで朝陽さんからそんな事を言われた経験はない。 そもそも対象外の相手に、中途半端に期待させるような発言はしない人のはずなのに。「大切って……でもそれなら、鵜野宮《うのみや》さんの事はどうなるんです?」 元々、私達の契約は彼女の気を惹くためのもののはず。鵜野宮さんだって何度も朝陽さんを訪ねてきているようだし、このままってわけにはいかないでしょうし。 それに……鵜野宮さんへの想いを抱いたまま、大切だと言われてもどう返事をすればいいのか分からない。「梨乃佳《りのか》への想いも、もう過去の事だ。あの日の夜と今では、俺が大切にしたくて傍にいて欲しいと思う相手が違うんだから」「あの……それって、もしかして?」 あの日の夜、それがいつの事を指しているのかはすぐに分かった。ただの傷の舐め合いなんだと、そう割り切っていたつもりだったのに。 そうする事が出来なかったのは、もしかして私だけじゃなかったの? 心臓がバクバクと音を立てる、緊張と期待で胸が張り裂けそう。流の時でも、こ
「少しだけ良いか、鈴凪《すずな》?」 風呂上がりにミネラルウォーターを飲もうとキッチンに向かうと、まだリビングにいた朝陽《あさひ》さんに呼び止められた。 スマホをテーブルに置いているのを見て、もう鵜野宮《うのみや》さんとの通話は終わったのかとホッとする。 朝陽さんと鵜野宮さんの関係を知っていても、まだこの胸には燻るものがあるからどうしようもない。そんな気持ちを勘付かれないように平常を装っていたのだけれど。「きちんと話したい、結婚式を前にこういう風にギクシャクした雰囲気にはなりたくないんだ。鈴凪の意見も聞きたいし……」 それは私だって同じ気持ちだけど、以前のように振舞うのは難しくて。自分の感情を抑える事がこんなに難しいなんて知らなかったし、好意を寄せる相手を意識せずにはいられないから。 それでも私に意見を求めるというのなら、今の自分が言える事はただ一つで。静かに唾を飲み込んで、しっかりと覚悟を決めた。「それじゃあ、遠慮なく言わせてもらいますね。朝陽さん、私は……この結婚式を、するべきではないと思っています」「それは何故だ? 俺達が交わした契約は、それが一番の目的なんだと鈴凪も分かっているだろう?」 もちろん朝陽さんはそう言うと思っていた、私には彼に借りがあるし最後までやり遂げるべきだと考えたのだけど。それでも、この結婚式をしてしまえば取り返しがつかなくなる気がして。 だから今からでも鵜野宮さんと、ちゃんと話をして欲しいと思った。変に拗れて素直になれないだけなら、そうするべきだって。「そうですね、ですが……鵜野宮さんと向き合う事は、今ならば十分できるのではないでしょうか? 足りないのは、朝陽さん自身の気持ちと覚悟だけですよね」 これは私の我儘なのだけど、でもお互いが意識し合ってるってことは分かってる。そんな二人のキューピットになれるほど、私は強くはなかったんだって。「は、梨乃佳? 何を言ってるんだ、俺とアイツはもうーー」「朝陽さんにも色んな考えや、予定があるのは分かっています。それでも、これ以上は私も揺らぎたくないので」 怒られることも、責められることも覚悟しての発言ではあった。 そして【揺らぎたくない】というのは、まぎれもなく私の本心。偽りでも結婚式を挙げてしまったら、この想いを隠し通せる自信が無い。 だから……「まさか、俺から逃
いきなり何を言い出すのだろうか、この人は。もしかして人形相手に張り合っているとは思えないが、急にそんな発言をする理由にも心当たりが無くて。 彼にとっては深い意味など無いのだろうけれど、中途半端に相手に期待を持たせるようなセリフで。それを真に受けないようにと思って、平常心を装って返事をしたつもりだけど。「えっと、朝陽《あさひ》さんがですか? それはもちろん有難い事なんですが、なんていうか……」「有難い? さっき話したような、嬉しいとかではなく? もしかして鈴凪《すずな》にとって俺は、そういう存在でしかないのか」 私の返事に朝陽さんは納得がいかないという表情をするから、余計に戸惑ってしまって。嬉しくないわけじゃない、でもそれを今の私の立場で言葉にしてはいけない気がする。 (仮)の婚約者で、朝陽さんの(仮)の花嫁になるだけの私。そういう契約なんですよね、私達の間にあるものって。 だからきっと彼の【守りたい】という気持ちも、今だけのものなのだろうから。そんな私に出来るのは、何も気づかないフリだけで。「あの、朝陽さんはいったい何を言ってるんです?」「何って、ここまで言ってるのに? お前は、どうしてそんなに……」 朝陽さんが何かを言いかけた時、テーブルに置いたままになっていた彼のスマホが鳴った。朝陽さんは話を続けようとするが、鳴りやまないスマホに諦めたのかテーブルの上にあるそれを手に取りディスプレイを確認して。「誰だよ、こんな時に……は、梨乃佳《りのか》?」 それは鵜野宮《うのみや》さんからの着信だったようで、彼はその電話に出るか迷っているように見える。私がここにいるからなのかもしれない、そう思ったら勝手に口が動いて。「あの! 私は着替えてお風呂に入らせてもらいますね。ちょっと疲れたみたいで、夕飯は無理そうなのでごめんなさい」 今の状態でこれ以上は、二人きりで話さない方が良いのかもしれない。適当な理由を付けて、とりあえずその場を後にした。「おい、鈴凪!? まだ俺の話は……」 後ろから朝陽さんの引き留めるような声が聞こえたが、返事はせずに自室へ戻り鍵をかけた。その後で朝陽さんが鵜野宮さんの電話に出たのかは、分からなかったのだけれど。「……どうして? 今になって、朝陽さんはあんなことを言うの? 全然、分かんないよ」 湯船に浸かってさっきの事を
「ずいぶんと遅かったな、夕方に白澤《しらさわ》から少し寄り道してくると連絡が来ていたが……」 マンションへと帰ると、リビングのソファーに朝陽《あさひ》さんが座って本を読んでいた。 珍しい事もあるんだな、と思いながら手洗いを済ませてグラスに水を注ぐ。喉を潤し一息ついてから、彼の質問に答えたのだけれど。「今日はですね、この前の人形の様子を見せてもらいに行ってました。それにシオさんに、色々と相談に乗ってもらったりもしていて」「シオ、とは? 相談って、そんな初対面の相手にいったいどんな内容を?」 白澤さんの友人だから朝陽さんも知っているかと思っていたが、そうではなかったらしく。彼の表情が少し険しくなったように見えたけど、これって私の気のせいだろうか? もしかしたらゴタゴタしている状況で、朝陽さんの知らない人に会ったのが良くなかったのかも? 白澤さんの知り合いなら大丈夫かと思ったが、きちんと相談すべきだったかもしれない。「ええと紫苑《しおん》さんは、白澤さんの友人の方でとても素敵な女性です。私自身のこれから先の事とか、自分や周りの人との向き合い方についてなんかも話したり。後はちょっと嬉しい事を教えてもらったり……」「嬉しい事?」 細かく話しておいた方が朝陽さんも安心出来るだろうと、シオさんの事についてもしっかりと説明する。話した内容も、なるべく隠さず伝えてみたのだけれど。 やっぱり朝陽さんの表情がいつもと違うように感じて、少し不安になってしまう。それでも今日の出来事を思い出し、嬉しかったことを話していると……「はい。その方が言うには、人形が私を【守りたい】と思っているんだって。それが凄く嬉しくて」「……もしも、俺もそうなんだと言ったら?」 急に言われたその言葉の意味が、よく分からなくて。私は今、自分の人形について話していたはずなのに。 不思議に思って、つい朝陽さんに聞き返してしまった。「……ええと、何が同じなんですか?」 いつもなら「ちゃんと聞いてろ」とか「何度も言わせるな」等の返事か来るのに、朝陽さんは凄く真面目な顔をしていて。何故だか私の方が緊張してきて、思わず唾を飲み込んでしまった。 そんなに彼を怒らせるような事をしてしまったのかという心配と、もしかしたら契約について何かを言われるんじゃないかって。 そんな私の不安な思いを、知りも
「素直すぎると言われて、それが原因で失敗することもあるんです。だけどそんな私でも、ちゃんと認めてくれる人もいるから……」 そう、今の私は……鈴凪《すずな》はそのままでいいと言ってくれる、そんな優しい人たちに恵まれていて。 だから前を向いて頑張れてるのだけど、ちょっと大きな壁にぶつかってしまって。「別にいいんじゃないか、それで。少なくとも私は鈴凪の事が嫌いじゃない、人形を大切にしてくれる人だと分かるから」 まさかシオさんにそう言ってもらえるとは思ってなくて、胸がジンとしてしまった。特別な事をしている訳じゃない、人形だって好きだから大事にしていただけだったし。 でもそんな些細な事でも、そう見てくれるのなら凄く嬉しいことだから。「いつだって紫苑《しおん》は人形のことばかりですね、昔からちっとも変わらない」「……でなければ、この仕事には就けなかっただろう。白澤《しらさわ》、お前がそうであるようにな」 なんだろう? 白澤さんの雰囲気がいつもより柔らかい気もする、皮肉を言っているようで普段以上に優しいように思えるのは何故なのかな。 そう思ってジッと白澤さんを見ていると、困ったような表情をされてしまった。 ああ、なるほど……?「そうですね、お互いに。鈴凪さん、お茶をどうぞ?」「ありがとうございます、白澤さん」 何となく誤魔化されてしまった気もするけれど、それもいいかもしれない。この二人には私の知らない今までがあるのだし、これから先だってどうなるかなんて分からないんだもの。 余計な事を考えてしまっていた私に、シオさんは先ほどの続きを話してくれる。「まあ、私から言えることは……この子が貴女を【守りたい】と思うほど好きで、心から幸せを願っているって事くらいかな」「私を守りたい、ですか?」 まさか、そこまでこの子が思ってくれているなんて。そんな気持ちの温かさに、勇気が湧いてくるような感じがしてくる。「ああ。だから鈴凪は今の自分の気持ちに素直なって、その事に向き合うと良いんじゃないかな。貴女らしく、ね」「私らしく、素直に相手と向き合う……ありがとうございます、シオさん!」 色んな人達に背中を押してもらった気がする。思い悩んで立ち止まってしまっていたけど、今だったら一歩踏み出せるんじゃないかって。 真っ直ぐにシオさんを見つめてから、頭を下げてお礼
先ほどの会話の内容を思い出し、気になっていたことをシオさんに訊ねてみる。何となくだけど、彼女にならば聞いても大丈夫だと思えたから。 するとシオさんは、私の質問に嫌な顔もせず答えてくれて。「んー、この子はわりと分かりやすい子だね。早く貴女のところへ帰りたいみたいだけど、もう少し我慢しておくれ」 どうやらシオさんは言葉が聞こえるというより、人形の表情から感情を読み取ることが出来るらしい。今も私の人形を見つめて、そう優しく話しかけていて。 まるで愛しい子供に向き合うように、シオさんのそれは慈愛に満ちた瞳だった。「本当に、人間相手にもそれくらい愛想を良くしたらどうです? この店は今も昔も、閑古鳥が鳴いているじゃないですか」 いつの間にか白澤《しらさわ》さんが湯飲みを乗せたお盆を持って立っていて。珍しくそんな皮肉めいたことを言うから、やっぱりこの二人は仲が良いのだと思った。 白澤さんは私に優しいけれど、こんな冗談はあまり言ってくれないから。「それこそ余計なお世話だね、私はこうして暮らしていくことに何ら不満はないのだから」「そういうところも変わらないんですね、鈴凪《すずな》さんも驚いたでしょう?」 けれどもこの二人の掛け合いを見るのは楽しい。なんだか心がほっこりすると言ったら、この二人はどんな顔をするのだろうか? 白澤さんとシオさんの、何とも言えなそうな顔を想像して楽しくなってしまった。「いえ、凄く芯のしっかりした女性だなって思いました。真っ直ぐで強い意志を持っていらして、そういうのって憧れます」 職人気質、な感じはするけれど……シオさんを見ているとそれも彼女の魅力だと思えた。見た目は華奢なのに、意志の強そうな瞳としっかりした雰囲気は同性から見ても好ましい。「そうかい? 人の良さ悪さなんて人それぞれで、貴女には貴女の長所があるだろう? ああ、でも……なにか悩んでるみたいだね。この子も心配しているよ」 どうしてシオさんは、出会ったばかりの私の事がそこまで分かるのだろう? 人形が彼女に伝えてくれているようだけど、きっとそれだけじゃない。この人は人形しか見てないようで、本当は凄く周りに目を配っている女性なのかもしれない。 「……ええと、はい。今悩んでいる事があって、まだ答えが出せてないんです」「ああ、やはり貴女自身が素直なんだね。この子の気持ちが